今日のワッキー

きみがいうなら

「きみが言うならそうなんだろう」

同じことを言っていても、「このひとが言うなら」、という場面がある。
はっきりとした理由はない。
ただなんとなく、そんな感じがするだけ。
その人が包むオーラがそうなのか。その人が正しかったことがまえにあったのを無意識に覚えているのか。はたまた、今朝のトースターの焼き加減がちょうどよくて、気持ちがおおらかになっていたのか。
いずれにせよ、「きみが言うなら」と言われるのは、信頼されている感じがして、少しうれしい。

言葉ひとつで、人生は大きく動くと思う。
面接のとき、会議のとき、友達を励ますとき。私は、助詞のひとつにも気をつかうことがある。それはとても大変で、そこまでしなくても、と自分でも思う。だけど、誰かが自分の言葉に影響を受けることがあるのなら、私はそれを言ったことに責任と自信を持たなければならないと思う。大げさだけど、ほんとうにそう思っている。

小学4年生のとき。
既に「八方美人」というワザを身につけていた私は、「今回の家庭訪問も褒められて終わりだな」とタカをくくって友達と遊んでいた。とても生意気ながきんちょだ。
しかし、先生は私の字の雑さをみて「字は体を現す」と親に言った。
はっとした。字の形でその人のひととなりがわかるということだ。字に心の状態が現れるのか。
たしかに、心に余裕のあるときの字は丁寧で、いらいらしたり焦ったりしているときの字は形が整っていなく、間隔も詰まっていて読みづらい。自分の心の状態を見透かされているようで、とても恥ずかしくなった。その日から、異常に小さく字を書いて字自体が丁寧かどうかわかりづらくする、というわけのわからない抵抗を経て、丁寧に字を書くようになった。

言葉も同じだ。言葉は発する人の声に乗り、顔に乗り、相手に届く。言葉はいろいろな洋服を着るのだ。ゆったりとした和服のときもあれば、かっちりとした礼服のときもある。どういう服を着せるかは、言葉を発する人にかかっている。
何かを明確に伝えたいときは、色もなるべくはっきりしていたほうがいい。発する人が緑色の服を着せたと思っていても、受け手は青だと思ったりするからだ。もちろん、あいまいな色の方が含蓄があって良い場面もある。

自分が伝えたい、発したい言葉を使うには、いつでも話すときに意識しなければならないし、発した言葉がどう伝わったかをあとで反芻しなければならない。その反復によって、言葉に自分の思いを乗せられる人間になると思う。すなわち、「君が言うならそうなんだね」と思ってもらえるようになるのだと思う。

そういう人になるために、今日も心に余裕をもって、丁寧に過ごしたいと思う。