今日のワッキー

無謀なことをしているけれど

僕はいま、とても無謀な目標に向かって毎日を過ごしている。その目標を達成するまで遠く長い道のりになるので、ゴールには靄がかかって見えない。僕自身もその姿は完全にイメージできていないから、たどり着いたところは姿形を変えた別のものかもしれない。或いはそのゴールは蜃気楼で、本当は一生たどり着けないかもしれない。けれど一応習慣になっているので、眠たい目をこすりながら少しだけ早起きしている。いわゆる朝活ってやつだね。それ自体は偉くもなんともない。

途方もないことを考えていると、一つ一つの作業がどうしても雑に、曖昧になってしまいそうになる。そりゃまあしょうがないことだよなあと半ば開き直りつつも、いやいやそれじゃあ手段が目的になってしまわないかと思い直してまた丁寧にとりかかったりする。その繰り返しだ。その繰り返しそのものは習慣にはならない気がするね。一生このサイクルな気もしてくるくらい、繰り返している。

ところで、丁寧に生きるってどんなことを指すんだろうと思う。
鶴瓶さんが糸井重里さんの会社を訪れ会談して、お昼になったから給食(ほぼ日㈱には給食がある…!)を食べましょうと、調理師さんが作った給食が配膳された食堂でみんなで食べる。鶴瓶さんが「これ美味しいなあ」とひととおり食べたあと、元に場所に戻るのかと思いきや…調理室に立ち寄って「ほんま美味しかったわ。ごちそうさん」と顔を出してひと声かける。
これが、丁寧な時間というものだなあ、と思った。
「あえてする」ということかもなあ。無駄かと思うことでも、面倒と思うことでも、あえてひと手間かけてやってみる。それが誰かの為ならいちばんいいのだけれど、そんな大層なことは常にできるわけじゃないから、ひとまず自分の為でもやってみる。そこには時間の概念がなく、何故か時間がゆっくり流れている気もするね。

よく「あえて」を「おせっかい」だと履き違える人もいるのだけれど、似ているようで全然違うと思う。おせっかいは、実はひとのためにも自分のためにもなっていない気がする。じゃあだれのためって、そりゃあ、まあ…「おせっかい」という言葉の存続のためくらいにはなってるんじゃないかな。

とにかく、先を見すぎるにはあまりに現実的ではなくて、毎日の心の維持には向かない。楽しい将来を想像して発奮するくらいにはちょうど良いけれど、そのくらいにとどめておいた方がいいよと、いつも自戒する。
「考え事は夜するな」って佐賀のがばいばあちゃんに教えてもらったし。