今日のワッキー

寂しいと感じる条件に、時間は関係ないかも、という話

住んでいた街を出る時、過ごしていた時間にあまり関係なく寂しく感じるのは、どういうことだろうか。長く住んでいれば、その街に愛着がわいて、ここから出たくない、ずっと住んでいたいと思うのは当然のことだと思うが、短く住んでいた街にも、質は違えどある種の愛着がわいたりする。時間に左右されずに住んでいた街を思うというのは、なにか特別なことが自分の中で起きているような気がする。

僕は埼玉で育った。物心ついてからず23,4年間ずっと同じところに住んでいた。駅前は再開発の地域で目覚しく発展していったので、小学生とかそこらの時代にはまだあったものが今は無くなっている事は多い。たとえば、その地域にしかなかったゲームショップ。二階建てで、実際に何種類かのゲームができるスペースもあった。CDのレンタルもあったので、KinKi Kidsやらモーニング娘やらのCDを家族で借りてきて、カセットに焼いていたりしたなあ。また、そのお店の出入口の近くには下水の堀があった。その辺りで遊戯王のゲームボーイソフトの箱が大量に捨てられており、中身がいくつか入っているという噂を耳にしては、兄と兄の友達で自転車をいそいそと漕いだりした。
その場所はもう跡形もなく、今はマンションの敷地の一部と化している。街は変わっていくものだ。その街の何が好きとかではなく、育った場所だから好きなのだ。

ここまでは、ふつう。そのくらい長い年月を過ごしていれば、思い出のひとつやふたつ、みっつやよっつある。問題はこのあとなのだ。

その後、今の会社に入社して間もなく、東京を飛び越えて川崎市内で一人暮らしを開始した。初めての一人暮らしだったが、すぐに慣れた。問題は、246号線沿いの賃貸物件を借りてしまったことくらいだった。自炊も毎日していたし、すぐに栄えた街に出られるのでとても便利な街だった。ファミリー層もいたりして、落ち着いた雰囲気も持ち合わせていた。
程なくして猫を飼い、貯金もしたかったので、わずか一年で実家にとんぼ返りすることとなった。

しかし、この一年の事は、よく、よく、おぼえている。今の妻と付き合うことになったのもそこにいた時だから、というのも大いにある。2人が過ごした時間を思い出すのは、昨日のことのように思い出される。しかし同時に、一人で過ごした時間も同じように思い出されるのである。そこで思い出すのは、生暖かい風が吹く時季と、キリンジとおにぎりだ。そこにいた時に聞き始めて、よく聞いていたのがキリンジで、昼休みのために朝おにぎりを握っていったのである。

それらをいま聞かなくなったし、握らなくなったから、思い出として登場してくるのかなあ。たとえば野球をラジオで聞き始めたのも一人暮らしをしてからだけど、実家に戻ってからもその習慣は抜けなかったのであまり思い出としては残っていない。
つまり、そこにいたとき限定でしていたことがあれば、思い出スイッチが押されることになるんだろう。

思い出はどんどん美化されてくので、年を追うごとにあの一年間は素晴らしかったものとして、僕の記憶に残り続ける。多分もう住むことは無いあの街にもう一度行きたいと思いつつも、いつまで経っても行かないでいるのも少し面白いね。