今日のワッキー

喜んでいる自分を外から見る

社会の役に立ったり、働いている会社の社員のためになったりすることを、ほんのすこしでもしている実感がわいてしまうと、わいた瞬間に「あれ?ところでなんでおれはこれをしているんだっけ」という感覚に陥ることが多い。たいていの僕の行動は自分を満足にさせるためなのだけれど、それが何かのまちがいで人のためになってしまうと、それはそれでこの木偶の坊は喜んでしまうので、喜んだ次の瞬間に違和感がわいてくるのだ。そして、本来の目的を少し忘れていたことに気がついたりする。

昨日、「おれはなんでここで働いて、『社員のためになりそうだ』なんて嬉々としているのだろう」と思った。自分のためにやろうと思ったことだったが、確かに人のためにもなりそうなことをしていた。この会社では長年抱えていた問題を解決するものだとか、始まってもないのに事業所の関係者からしきりに感謝されているとか、実感することが既に多い。けれど、そもそも赤の他人のために何かをする大義は、僕は持ち合わせていない。だから、ふとわれに返るのである。

なにかをするときには、自分の想いは相手にはほとんど関係ないということを最近よく感じる。ブログを書いていても、記事のアクセスや評価とその記事を書く想いは比例しない。書くのに想いは必要だけど、受け手にとっては必要ないんだなあ、と、表現する難しさを痛感している。
だから、全て自分のために仕事をしていても、それが相手のためになることもある。募金をしたり、電車の席を譲ったりするのをみて偽善という人も中にはいるけれど、された側にいい影響があるということだけで良い。する側の想いは、関係ない。

と、回りくどく自分の行動を正当化したけど、サッカーや野球なんて、もともとそうだったよね。「おれがゴールを決める!」「おれがランナーをかえしてやる!」と、なにかとじぶん、じぶんだった思う。それが、チームのためになってるのよ。フォアザチームが美しい、バントが美しいなんてしきりに聞いたりするけれど、ほんとはみんな自分が活躍したいんだろう。チームプレイって、そういうものなんじゃないかな。

バントしつつも自分もセーフ狙っちゃうなんてちゃっかりしたことを、なるべくしていけたらいいなー。